ちいさな戦争
漫画、ドラえもんにて
のび太が戦争に加勢しようとする場面があった。
のび太「正しい方に加勢しなきゃ」
ドラ「テキトーにやんなよ」
のび太「どっちが正しいんだろう」
ドラ「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんさ」
たしか、こういうセリフだったと思う。
戦争はどっちも正しいと思っている、というのは言葉では分かっていても、実生活でそれを認識し、応用できてはいないのではないか、と最近考える。
例えば、仕事で
理屈で、その仕事は〇〇すればいいんじゃないですか?
と意見すれば
感情で、お前はわかってない!
なんて言われる事がザラにある。
当然、こちらは仕事は理屈で、効率とか費用対効果とかを考えてする訳であって
忙しく働いてて気持ちよかったけど、利益はさっぱりありませんでした!
なんて事にはなりたくない訳で、仕事をする以上、補充や増加が無理なら
削るとか減らす事まで視野に入れて考える訳である。{抽象的な表現で抑えます}
すると、あちらからすれば、数字ばっかり言ってんじゃねえよ、と現場で無理だっつってんだからそんなもん訊かずにわかれよ!と、それ本当にわかってんのかと思わざるを得ないような発言を受けるのである。
今までそれを、「単に面倒くさがりとか勉強不足じゃないか」とか、「事務仕事は発言権がなくなるじゃねーか」と考えていたが
これこそ、小さな戦争なんじゃないか、とふと感じたのだ。
仕事なんだから、トータル利益を考えて、理性や理屈で話して落とし所を見つけたり、負担になる仕事の譲歩や引受を行ったりするもんだと思っていたが、
『みんな』はそうじゃないである。
やはり、正社員であっても労働者意識だけで働く人が大多数なのである。
(俺もただの平社員なので、こんな事考えてしまうのも損な役回りに思ったりもする)
それならば、労働環境や人間関係から来る『感情論』も
費用対効果や計上感覚からくる『理屈』も
実は同等の正しさとして、今まで小さな戦争を起こしていただけなのではないだろうか。
もちろん、感情が無いわけじゃないし、現場にいた事もあるけど、
数字が無いと給料も無くなるし、今ある数字でなんとかする術も可能性として考えるのが仕事であるし、やはり『感情』<『理屈』と思っている。
しかし、みんな『感情』>『理屈』であって、
様々な人たちみなみな
自分が正しい、と思っているのである。
その正しさとは、『生き物や個人の資質の習性としての行動も同義である』
まずは、そこから理解をしていかなければいけない。
表現方法が違うから、不愉快になることは避けられないが、まずはそこからなのであろう。
『セラピスト入門』東豊:著の本の中でセラピストにおいて根本的に大事な事を書いていた。
それは、『問題を問題と捉えない事』
『問題を枠組みと捉える事』と。
問題と考えられているのは、それは 個人の枠組みであったり、グループの枠組みであったり、もしくは関係の枠組みであったり、する訳である。
それを『問題』と捉えずに、『枠組み(個人の価値観や、関係性の主従と言った方がわかりやすいだろうか)』として理解を示し共感する事で、解決の糸口が見えたり『問題』自体が消失したりする事があるそうなのだ。
もちろん、セラピストの理屈を仕事の流用できるとは思えないが、それも一つの『枠組み』にすぎないのかも知れない。
解決策は意外と、辺鄙で、だけど思いの外近くに佇んでいるかもしれないし、無いかも知れないが
探してみるという楽しみを頭の片隅に置いていても損はないはずである。
0コメント